私の目の前に、分厚い三冊の本がある。
私の名前は、緋音。しがないクリエイターだ。 緋音というのはもちろん、ペンネームである。
これはかつて私が、アメリカ人の友人から託されたものだ。かれこれ30年も前のことである。
当時東京に一人で暮らしていた私は、故郷に帰るという彼女を見送りに、その日成田に来ていた。雲ひとつない深い青空の、爽やかで気持ち良い秋晴れの一日だったのを鮮明に覚えている。
国際線の送迎ロビーに着くと彼女 ―――ソフィアは、ポツンと一人で立っていた。 どういうわけか誰も見送りがいない。確か、こっちにも関係者は結構いたはずなんだが。
私に気づくと、微笑みながら手を上げるソフィア。 私は彼女に近づき周囲を見回しながら疑問を口にすると、なんと彼女は今日この時間日本を発つことを誰にも話していないと言う。驚いた。
そしてもう一つ、彼女の足元にある妙に大きな黒い書類鞄が目についた。 手荷物は既に全部預けてあるはずだが‥‥‥ すると彼女はその鞄を指差し、全てはこれをあなたに渡したかったからだ、と言う。私に?これは一体?
彼女がしゃがんで鞄を開けると、まるで博物館でガラスケースにでも収まっていそうな、分厚い革の表紙がついた、数百年前からタイムスリップしてきたかのような本が顔を出す。 ソフィアはその一冊を手に取り、開いて私に示しながら、流暢な日本語で言った。
前に少し話した『あの旅』について、この中にできる限り詳しく書き留めてある。どうかここに書かれたことを世に広めて欲しい、と。 ただし本そのものは決して誰にも渡さず、ずっと大事に保管して欲しいとも。
唐突な話に私は思わず、無茶だよ、と声を上げてしまった。
世に出す?当時はバブルが弾けたばかりで、仕事が無くなって日々食い扶持を稼ぐだけで必死だった底辺の作曲家兼デザイナーの私に、そんな暇も発信力もあるはずがない。
しかも見れば本の中身は全て英語、さらには手書きときている。 彼女の字はとても綺麗なのだが、それでもネイティブの書いた英語など、日本人の私に読める気がしない。 それに加えてこのボリューム。不可能だ、どうみても。
だが彼女は、少し悲しそうな表情で言った。 あなたにしかこんなことは頼めない、と。
聞けばソフィアは『あの旅』から帰って以来、これを託せる人物をずっと探していたらしい。 故郷に帰ってからも、その後留学で日本に来てからも。 そしてその末に、この私に運命を感じて白羽の矢を立てたと言うのである。
友達なら地元にいくらでもいるでしょうに、私はそう尋ねた。 なぜよりによって、私なのだ。
確かに彼女は青春時代の大部分を米国で過ごしていないので、友人は多くないかも知れない。だが決して、人付き合いが苦手そうな女性ではなかった。親しい友の一人や二人、いるはずだ。 だいたい何故こんな嵩張かさばるものを、留学先の日本にまでわざわざ持ってきたのだ?
しかし彼女は首を横に振り、むしろ逆に日本人だからこそ頼みたいのだと言う。自分は日本人の気質をよく知っている、と。 (余談だが彼女は白人であるが父方の祖母が日本人で、クォーターである。) 治安の悪いロスの自宅にこれを置いてくることは怖くて出来なかった、とも。
詳しく聞こうとすると、彼女は手で制してちょっとはにかみながら続けた。 何より『あの旅』の話を最も真剣に聞いてくれたのがあなただったからだ、と。 そしてあなたならきっとこれに書かれていること全てを、真っ直ぐ受け止めてくれるだろうと。
この中にはそんなに妙ちくりんなことが書かれているのかと聞くと、彼女は真っ直ぐ私の目を見ながら真顔で大きく頷いた。
私は思わず吹き出した。 確かに私には、夢想癖がある。 神様や幽霊も、UFOや宇宙人もスピリチュアルも、大真面目に信じているクチである。何度も会って話す間に、彼女にはそれがしっかり伝わってしまっていたようだ。やれやれ。
問答を繰り返すうち、なんとなく気が変わってきて私はこのとんでもない大仕事を引き受けても良いような気分になっていた。 彼女の真っ直ぐな眼差しと訴えが、私の心を大きく動かしたのは間違いなかった。
ただしいつになるかは分からないよ?と念を押す。
ソフィアは構わない、と言う。 自分は“彼ら”にまた会いに行く。会いに行かなければならない。 戻ってこれるかどうかも分からないから‥‥‥と。
そして彼女は、それまで見たこともなかったような真摯な面持ちで言った。
ここに書かれている世界について、その意味を皆に考えてもらいたいのだ、と。 それがきっと、私たちのこの世界の人々の未来のためになるはずだ、とも。
そう言い残し、ソフィアは日本を離れていったのだった。 おそろしく重い書類鞄を、私の足元に残したまま。
その日以来、現在に至るまで彼女は全くの音信不通だ。 今どこで何をしているのかも、まるきり分からない。
その後矢のように時は流れ、約30年 ――― 私も随分歳をとったが、相変わらずクリエイターとして生き永らえている。 世はインターネットが普及し、最近ではSNSなども利用でき、誰もが世界へ向けて気軽に言葉を発することができる時代。
そしてそんな今ようやく私は、 ついに、 これらの本に書かれた内容を読み取る作業を一通り終えたのだ。
この本を預かった当時の私にはよく意味が分からなかったが、今なら理解できる。 彼女が本を手元に置き続けていた理由。 何故これを、世に出したいと思ったのか。 何故、この私に託してくれたのか。
あれから世の中も随分変わった。 先日は、3I/ATLASが太陽系を訪れた。 長い間都市伝説、陰謀論と言われてきたたくさんのことが、今改めて見直されつつある。 悪意と嘘で塗り固められた過去の常識が、崩れつつある。 新しい時代の扉が、まさに開かれようとしている。 今こそこの物語を、表に出す時が来た気がするのだ。
そして、“彼ら”に会いに行くと言って消えたソフィアは今、もしかすると ―――。
分からないところはある程度想像で補完して書いてしまっても構わないと彼女に任されているので、ここから先は誰もがとっつきやすいように、より面白く興味を引く体裁にするためにフィクション、とりあえずは小説の形をとることにする。
まずはこの本に書かれた世界…ウルガイアと呼ばれる世界におけるソフィアの親友のひとりであり、そこを語る上で決して外せない人物 ――― ルルという少女について、語っていこう。
ようこそ、深淵の新天地へ。